幕間ニ.魚の夢
水の滴る清涼な音で目を開けたが、移ったのは汚らしい染みだらけの天井であった。
現実と理解が追いつかず、瞬きを数回。
気配がして、首を僅かに右に倒す。
黒髪の三角眼の少年が、ござの上で薬研を引いている。見知らぬ少年だ。
ただあまりに真剣に車を奥に手前に引いているので、警戒心が全く生まれなかった。
「あ!起きた!」
視界の中に、同じ顔が二つ突然飛び込んできたので、滅多に驚かない沙希も衝撃と混乱で目を見開く。
ぼんやりしていた頭を強く叩かれたみたいだ。そこで、体中に痛みが走っているのに気づく。
遅れてやって来た痛覚に眉をしかめると、顔を覗き込んでいた二つの顔が引く。
「あー!動いちゃだめだよ。」
「すごい怪我してるんだから、じっとして!」
「お前らが驚かすからだろうが。ちょっと下がってろ。」
薬研を引いていた少年が幼い二人の頭を小突き、沙希の隣に座る。
「起きたならこれを飲め。痛みが和らぐ。」
頭の後ろに手を添え、少し首を起こすと、歪んだ茶碗の中身を沙希の口に当てて飲ませる。
沙希も、何故だか警戒心が生まれなかったので、素直にその液体を飲み干した。
苦くも甘くもない中身を飲み終えると、固い枕に頭を戻され、少年が沙希の体に無遠慮に触れてくる。
「貴方、医者なの。」
「ただの薬売りだ。医学は独学。鬼憑きってのは治りが早いんだな。もう骨がくっついてやがる。」
「薬売りさんは人間と鬼憑きの区別がつくの。」
「まあな。薬の効き目がまるで違うし、それにー・・・。それはいいか。俺は大和。そっちの双子は弟達。」
「私は沙希。」
傷の具合を確かめる大和に好きなようにさせながら、汚れた天井に顔を戻す。
何故だろうか。すごく安心するのは。
「にしても、山の上流から流れてきたくせによく生きてたな。俺は死んでたと思ったぜ。」
「助けてくれたの?」
「見つけたのは弟達。運んで治療したのは俺。」
「そう。ありがとう。」
首を左に回し、足下でおとなしく兄の治療を見守る双子にお礼を言う。
同じ顔で同じ格好で座っているのに、雰囲気が全然違う兄弟は、物珍しそうな、好奇心を詰め込んだまん丸の瞳で沙希のお礼を受け頬を赤くした。
「治療費は払うわ。」
「一文無しが。」
「荷物流されちゃったのね。でも大丈夫。賞金首でも捕まえて払うから。」
一通り診察を終えたらしく、今度はすり棒で鉢の中身をすり潰し始める。
沙希は改めて部屋を見渡した。
土壁はひびがはいったり削れたりしており、すきま風が通り過ぎているのがわかる。
狭くてほこりっぽいこの部屋が、こんなに落ち着くのはなぜなのか。
天井に顔を戻し、長く息を吐きながら、全身の力を抜いて瞳を閉じた。
双子は兄に言われおとなしく外に遊びにいき、しばらく大和が薬品をすり潰したりする音だけが聞こえるだけだった。
「鬼憑きは夢を見ないというのは本当か。」
沙希が眠っていないと知っている、唐突な大和からの質問だった。
「他の鬼憑きのことは知らないけど、私は夢を見るわ。」
「そうか。」
「さっきは魚の夢を見たの。」
「なんだ、腹でもすいてんのか。」
「そうじゃなくて。」
目を閉じているのに、大和が苦い顔をしてるのがわかった気がした。
「鱗が虹色に輝く大きなまん丸の魚が、目の前を優雅に泳いでいるの。空中をよ。
右に行っては翻り、左に行っては翻る。
天井の穴から差す陽光が鱗を輝かせてる様を見ていた私は不意に聞くの。
“此処じゃないどこかへ行くにはどうしたらいい?”ってね。」
「魚はなんて答えたんだよ。」
「知るか、ですって。」
「無愛想な魚だな。」
「フフフ。」
夢の中の魚が喋ると彼はわかったのか、沙希は疑問に思わなかった。
彼ならわかってくれると確信していたので、聞いた
「大和、真人はどこにいるの。」
すり棒の音が途絶えた。
沙希は瞼を開き、寝転んだ瞳で大和をじっと見つめた。
「教えて。」
「やっぱりお前、夢の魚を食ったろ。」
「食べても美味しくなさそうな魚だったわ。」
「夢は決してつながらないんだがな。」
「“今の”私を生き返らせたのは真人ね。」
観念した風に小さくため息を吐いた彼は鉢を脇に置いて、沙希を見ないまま答える。
「そうだ。ちゃんと確認したわけじゃなかったが、お前は死んでいた風に見えた。
真人の馬鹿が息を吹き込んだら素直に水を吐いて呼吸をし始めたんだ。」
「それで、真人は?」
「家に帰ったよ。桜殿の方のな。二ノ宮にお前の薬貰いに行ったついでに、如月斎に説教でもされたんだろ。
素直に帰りやがった。」
「白拍子が言ってたわ、水宮の儀が近いって。」
「偽の桜姫がまた繰り返しを始める前兆だ。あれは禊ぎだからな。真人を軸にまた悪戯に因果と時間をかき混ぜる気だ。」
「止めなきゃ。」
半身を起こした沙希の肩を止める。
「いくら鬼憑きでもその傷じゃ駄目だ。せめて一晩待て。どうせ儀式は次の新月の晩。焦っても仕方ねぇ。」
「ここから宮処までどのくらい?」
「人の話聞けって・・・。」
「雨条家の玉は使えば使うほど反動が来る。今度の時間操作で真人の魂に傷がつきかねない。」
「それはねぇだろ。だってアイツはー。」
「今の現世に絶対なんてないわ。」
薄暗い家中にあって、強く輝く黒い瞳に負け、また大和はため息を吐いて
沙希の額を軽く叩くと無理矢理枕に上に戻した。
「桃那に頼んで馬車を借りてやる。それまでおとなしく寝てろ。」
「走った方が早い。」
「阿呆か。ここから宮処まで馬でも七日かかる。馬車で左京の家に行って、転移術かけてもらえ。」
「・・・わかった、そうする。」
「この記憶も、一刻もすれば消えちまうな。」
「でもきっと、また思い出せる。真人がくれた証が、私たちをつないでくれている限り。」
眠るために目を閉じる。
目を覚ました頃にはまた零からやり直すとわかっていても、今は体を休ませなければならないから。