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十一.月と桜と鬼と

黒と赤の眼で見える世界は全くの別物のようであった。
色という色は剥がれ落ち、錆び付いた光だけが存在する。
悪い夢の迷路に紛れこんでしまったかのように落ちる現実にあっても、沙希は目的だけは失わなかった。
大内裏の中心に、林に囲まれた建物があり、中を更に更に奥に入ると、天井まで届く大きな扉があった。
色あせたように見えるのはこの目のせいか。おそらく赤いであろう扉には桜の花びらを模した彫刻が彫られており
両開きの扉の前に、真白の狩衣を纏い不思議な模様が描かれた髪で顔を覆った青年が立っていた。
今の沙希には、白という色はわからなかったが。


「墜ちたか、鬼に。宮様にもらった体で生まれておきながら鬼になるとは、恩知らずにも程があるな。」


今の沙希に返す言葉がなかった。声を失っているようなのだ。
ただただ、黒い眼と赤い瞳孔で白拍子をじっと見つめた。
表情は紙に隠されているのに、酷く悲しそうに感じる。
沙希は刀の柄を握りしめた。
踏み込みは二人同時だった。
地面を蹴って低い姿勢のまま突進し、高速で近づく相手に刃を、または錫杖の先端を突き出す。
勝負はその一度きりで決まった。
白拍子は片膝をついて倒れ墜ち、顔を覆っていた紙がハラリと廊下に落ちる。
ああやはり、彼と同じ顔だ。沙希は声に出せないので心の中で歓喜した。
ただ彼よりは大人びていて凜々しい造りで、怒りで眉間を歪めながらも、その下にある双眸は悲しげな光がうずいている。
白い狩衣に染みが広がる。色がわからぬのだが、きっと紅。
脇腹への一撃だったが、命に別状はないだろう。なにより彼は桜ノ宮の護衛であり、彼の兄なのだから。
沙希は踵を返して、扉を押した。
後ろで白拍子が何かを叫んでいたが、扉の向こう側に吸い込まれ始めたため聞き取れなかった。
そこは桃源郷と呼ぶには淡すぎる世界だった。
南天から半円に包む空は下半分は暗い水色で、上半分は濁った白。
目で見える範囲全てに桜の木が植わっており、どこから吹く風に枝を優雅に揺らしていた。
風に飛ばされた花びらが舞い、夢と現の境を極めて曖昧にしていた。
沙希の前に僅かにこんもりとした丘があり、丘には、どの桜よりも太い幹をもって、どの花弁より美しい花を咲かせた大樹があった。
何十年、何百年もの月日を有したらそんなに立派に荘厳な佇まいになるのかと訪ねたくなるほどに
立派な桜の木の前に
真白の着物と真白の袴を履いた少年が立っていた。


「待ってたよ、沙希。」


茶色い髪が風に踊る様すら、大樹の前では散る花びらと同じ。
切なげな微笑みも、真白の袖がなびく様も、呼吸すら、大樹を背にしていると幻想的すぎて現実とは思えないのだ。


「約束、守ってくれたんだね。」
「ええ。貴方を殺しにきたわ。」


人間の声帯を失ったはずなのに、声はすんなり口から出ていった。
真人は微笑んだまま、狭い球体に閉じ込められたような狭い空を見上げた。
空は色を随分濃くしていた。
上半分は水色に、下半分は藍色に。
上下のちょうど境に、月があった。三日月よりは太いが、満月よ呼ぶには不足が覆いいびつな丸。


「桜に月か。沙希は相変わらず素敵な趣向をこらしてくれる。」


自分に向かって無邪気に笑う彼の姿に、漆黒に染まった瞳から涙が落ちた。
鬼も悲しいと泣ける生き物だったと初めて知った。
沙希は刀を顔の横で真っ直ぐと構え、震える切っ先を真人に向けた。


「桜姫の子息、真の“桜ノ宮”様。千の呪いと万の呪縛から解き放たれよ。」


先程白拍子と対峙したときのように、強く踏み込んでたった一歩で刀を真人の胸に突き刺した。
柄の手前まで深く刺さった傷口からあふれ出るのは、鮮血ではなく細かい桜の花びらだった。
触れあえるほど間近にある真人の顔は、穏やかで。
泣き続ける沙希をみてまた笑った。


「これで輪廻は正しく回る。何度もくり返す世界は終わりを告げよう。」
「正しい世界に貴方がいないなら、意味などない。」


表情がないままの彼女の頬に、また一筋雫が落ちる。
真人の体は、胸の傷口から桜の花びらとなって崩れ始めた。


「全ては桜の見せた夢。僕は在ってはならぬ泡沫。」
「貴方は桜ノ宮。正を司り春に閉じ込められた桜姫の忘れ形見。」
「母は不死と引き替えに僕を産んだ。それで時間が捻れたならば、僕の死を持って解かねばならない。
大丈夫。桜姫や桜ノ宮がいなくても、この世界は生き続ける。命が在るとはそういうことさ。」
「真人がいなきゃ、」
「さよなら、沙希。」


真人の体全て桜の花びらとなって散った。
塊は風に吹き上げられ空へ舞い上がり、歪な月に向かって飛んでいってしまった。
桜の大樹の花がみるみる茶色く枯れていき、幹は萎れ枝は土まで垂れ下がる。
美しさの片鱗も残ってはいない大樹が醜く落ち、その横で、沙希の体はゆっくり後ろに倒れていく。
鬼の姿のまま、色のない視界で、舞い上がる桃色の花弁を最期まで目に焼き付けようと努力するのだった。





 

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