第二部 南十字は白雨に濡れる 3
廊下を歩いていた事務員の人から―比紗奈が刀を壁に突き刺して脅し無理矢理―調査資料のコピーを入手した。
気弱な事務員さんに何度も頭を下げてから、本郷会長にバレる前に紙数枚を持って協会本部ビルから逃げ出した。
新宿駅の近くで足を止め、二人で数枚の紙を覗き込む。
内容は薄っぺらく、起こった事象を事細かく記した報告書と、日室誠司の詳細、監視カメラに写った紫外套達の画像が張ってあるだけ。術士協会に反抗的な団体の名前がいくつかピックアップされているが、今回の犯人であると断定はされていない。
「ハズレね。」
「本部もまだ何も分かってないってことなのかな。」
「おそらくね。調査本部立てたって、警察でも探偵でもない素人集団だからね。」
比紗奈は紙から顔を反らしたが、夏海は背を丸めてじっと監視カメラの画像を凝視する。
「背中と胸の部分に紋章があるね。」
「北斗七星と推測されるって書いてあるわよ。」
「形が違う気がする。一つ、足りない。南斗六星、っぽい?」
「忘れてたけど、貴女も七星の出身だったわね。七星は星読みとして有名なのよね。」
「落ちこぼれでまともに勉強してこなかったけど、お兄ちゃんが毎朝星詠みする習慣があって、アタシもなんとなく覚えたの。
うーん、でも北斗七星じゃなくて南斗六星を祀る団体、アタシは知らないなー。」
「お兄さんなら知ってるんじゃない?」
「今話を聞いてくれるかどうか・・・。」
「日室誠司に繋がる手がかりなら耳を貸すんじゃなくて?」
「あんまり刺激したくないなぁ。」
「主が使っておる情報屋を頼ればよかろう。」
夏海の足下、影の中から声がした。
低い男性の淡々とした声に、比紗奈も夏海の足下を見つめた。
今朝から白虎は姿を現していなかった。外を歩く時はよく散歩代わりに外に出ているし、比紗奈と面識ないわけではないのに。
夏海が自分のスニーカーに向かって嫌な顔を向ける。
「あの人はお金の請求えぐいから、近づくなって言われてるじゃない。お兄ちゃんと違ってお金持ってないよ。」
「行きましょう。特位のお兄さんが頼るぐらいだから、腕は確かなのでしょ。お金は私が払うわ。これでも三位だからね。場所は?」
「新大久保。」
「近いわね。」
山手線で一駅隣の新大久保駅で下車し、夏海の案内で歩き出す。
夏休みが始まったこともあり若い女性や観光客で通りは賑わっていた。
腰に日本刀を帯刀しているセーラー服姿の女子高生など目立って仕方ないはずだが、視認されない術を掛けてあるので誰も彼女の武器には気づかない。おかげで電車で騒がれることもなかった。
コリアタウンとしても有名な市場の脇を抜け、小道に入る。
その道にもハングル語のカラフルな看板が並ぶ。
夏海が建物と建物の間に出来た細く薄暗い道に迷い無く進むので、比紗奈は腰に差した刀がぶつからぬよう引き寄せながら後に続く。
道の脇で、古くて汚い換気扇が音を立てている。雨が降ったわけでもないのに湿った細道にはコケが生え、梅雨明け直前の夏とは思えないぐらい涼しかった。気味が悪い涼しさだ。
建物の脇のはずなのに、右手に茶色い扉が現れた。
薄汚れ黒く煤けており、ステンレスのドアノブが付いているだけだった。
夏海がドアを六回ノックした。リズムが普遍的な叩き方が合図だったようで、カギが開くガチャリという冷たい音が聞こえてきた。夏海は比紗奈に小さく頷いてみせてから、ドアを押した。
薄暗い路地より建物の中は暗かった。ドアの先はまず細い道になっていた。通路なのだろうが、左右に物が山積みに積まれており、細身の女子高生ですら体を斜めにしなければ進めない狭さ。
箱やコード、袋に雑に詰められたゴミのような物などを横目に通路を抜けると、そこはカウンターがある小さな小さなバーのような場所になっていた。
焦げ茶のカウンターに、潰れぎみで背もたれもない丸いカウンターチェアが四つ。
板間の床に黒い壁。吊り下げられた電球カバーは古いデザインで、明るさは不十分に思える。
カウンターの奥に棚がいくつもあった。お酒も置かれているが、お菓子缶やガラス瓶の方が多かった。
大きめなガラス瓶の中に入っているのは、漢方だろうか。
カウンターの奥で男が座っていた。
中肉中背だが肩周りががっちりした体型の男は、ねずみ色のパーカーを着て、フードを目深くかぶって携帯をいじっていた。
「お邪魔します、逆(さかう)さん。」
夏海がそう声を掛けてカウンターに近づくと、男は携帯をいじる指を止めこちらを向いた。
「アレー、夏海ちゃん。久しぶりだね。お兄ちゃん元気?」
見た目よりフレンドリーで軽い物言いに、比紗奈が刀の柄を握りながら眉根を寄せて夏海の横に並んだ。
「警戒しなくても大丈夫だよ、比紗奈ちゃん。この人は術士相手の情報屋さんで―」
「こんなとこで何やってるのよ、更衣(きさらぎ)。」
比紗奈の反応が予想外でキョトンとしている夏海と違って、
カウンターの奥の男は唯一見える口元でニヤリと笑った。
「さすが比紗奈。見抜かれたか。」
「比紗奈ちゃんも逆さんと知り合い?」
「その逆って何?」
「情報屋としてのコードネームさ。さすがに本名でこの家業出来ないからね~。」
「夏海は、あんたが術士協会一位の更衣傑流(きさらぎすぐる)だって知らないのね。」
男が指を鳴らす。
目深くかぶっていたフードを外すと、そこに居たのは金髪の眉目秀麗という言葉がぴったりの若い男だった。
中肉中背で肩周りががっしりしていた男の面影はない。だが、同じねずみ色のパーカーを着ている。
「うそぉ!?更衣さんって、お兄ちゃんが協会に入るまで最強と呼ばれてた人だよね!?」
「素顔は目立つから、普段はさっきの地味男に擬態して過ごしてるんだよ。情報屋逆の姿であるとも言える。」
「何かっこよく言ってるのよ。滅多に仕事しないし本部の招集無視しまくってるから、周りにバレないように変装してたんでしょ。」
「酷いなぁ。情報を集めるのは隠密なんだよ。言っておくけど、俺の本業はこっちなの。つか家業。術士相手の情報屋だったんだけどネットが発達し過ぎたせいで商売あがったりでさー。術士協会に入ったのは小遣い稼ぎ。」
「小遣い稼ぎで一位?」
「そりゃ基礎給金変わるなら試験必死にやるでしょー!一回仕事受けるだけでサラリーマンの月給軽く越えるんだよ?」
「あんたより夏海の兄貴の方が働き者よ。」
情報屋の逆―こと、更衣が夏海の方を見てにっこり笑った。
「この姿で会うのは初めてだよね。驚かせてごめんよ。日室誠司関連で来たんだろ?
お兄ちゃんにはお世話になってるからね。話ぐらいは聞いてあげるよ。」
座って、と言われ古びた丸椅子に腰掛けると、カウンターの後ろに冷蔵庫があるようで、背を向けて中を漁り出す。
よく冷えたオレンジジュースを出される間、夏海はまじまじと情報屋の男を観察していた。
情報屋逆は常にフードで顔を隠していたし、直接話したことはあまり無く、いつも兄とやりとりをしているのを後ろから眺めていただけだった。
本物の逆さん、いや更衣はまさにモデルのような出で立ちであった。
さらさらと音がしそうな程繊細な金髪に、男性にしては大きめな瞳にシャープな顎。ジュースを差し出したときの指は長く作法も美しい。
兄より長身であるのに顔がとても小さい。一体何頭身なのだろうか。
表情は柔らかく、口元が笑みの形のままカウンターの机に両手をつく。その姿さえ雑誌の切り抜きみたいだ。
自慢の兄も整った顔立ちだが、更衣は華があり目を引く美しさが備わっていた。アイドルとかイケメン俳優の部類だ。
夏海が更衣に見惚れている横で、比紗奈がポケットに雑に入れていた調査資料を情報屋に見せた。
「南斗六星か。宿曜道っていう中国から伝わった二十八宿なら斗宿とも呼ぶ。密教系が今も使ってたりするし、団体か組織か一族か知らないけど、象徴としてる組織は山ほどいると思うよ。」
「手がかりは今のところこれだけなの。」
「君たちはテロリスト達を見つけてどうするの?」
「私は手柄を立てて出世、夏海は日室誠司を捕まえて話をさせる。」
「それ、透夜クンのため?」
夏海が小さく頷くと、そっか、と更衣が僅かに首を傾けてから、口角をつり上げ少女達を交互に見た。
「実はさ、今回の事件、俺も頼まれて色々調べてたんだよね。主に、日室誠司について。
住んでいたマンションは既にもぬけの殻で解約済。携帯電話は現場近くの地下道に捨てられていた。
次に調べたのは戸籍。本籍は出身地の長野になってたけど、実家はもう売りに出されて大型ショッピングモールの駐車場になってた。
父は彼が生まれてすぐ病死、母も彼が中学生の時に死亡している。にも関わらず、正月なんかは長野に帰っている。」
「それのどこがおかしいのよ。生まれ故郷に帰るのはおかしくないじゃない。」
更衣がカウンターの向こうで腕を組みながら不適に微笑む。
「日室誠司が生まれた病院に残ってたカルテによると、日室誠司はB型。でも協会の健康診断結果によると、O型になってるんだよ。
田舎の小さい病院だし、書き間違えたのかなーと思ったりもしたんだけどね。」
事件発生から三日経っているとはいえ、もう健康診断の書類まで手に入れているとは。
まるで警察みたいだ、と夏海は話を聞きながら頭の片隅でそんなことをぼんやり考えた。
子供の頃から顔なじみだったおじさんの、知られざる一面を見せつけられている恐怖から、現実逃避しようとしているのかもしれない。
「日室誠司という、そもそも別人の戸籍を使っていると俺は読んでいる。今時戸籍ぐらいすぐ買えるからね。」
「じゃああの人は・・・アタシ達が誠司さんだと思っていた人は、誠司さんじゃない・・・。誰なの?」
「それを知りたい大人がわんさかいると思うよ。一番知りたいのは、透夜くんだろうけど。
さ。わざわざ訪ねてくれたお礼はこれぐらいでいいだろ。もう帰りなさい。」
「嫌よ。この紫フードの人物について情報をもらいに来たの。」
「お前はなんで動いてるんだ?」
「私は日室誠司と敵組織を見つけ出して手柄を立てて、お兄さんの推薦をもらうの。夏海はその助手よ。」
「俺が推薦書こうか?」
「紙切れ一枚にいくら要求するつもりかしら。」
「フフフ、未成年相手だから安くしとくよ。」
「他に情報はないの?」
「これ以上は有料。」
「払うわ。」
「未成年相手に情報の売り買いはしない決まりなんだ。」
「夏海の兄貴は客なんでしょ?」
「透夜くんは特別さー。情報を売る代わりに、こっちの調査も手伝ってもらったりしてるし。」
「なら私たちにも情報売りなさいよ。」
「ダーメ。日室誠司と紫フードについては大人に任せて、若者は夏休みでも満喫していなさい。」
比紗奈がいくら抗議してもそれ以上更衣から情報はもらえず、首を横に降るばかりであった。
そろそろ夕方になるから子供は帰りなさい、と半ば強引に追い出され店を出た。
大通りまで戻り、クレープを持ったままキャッキャと騒ぐ女子大生を横目に、比紗奈が腰に手を当てて短く息を吐いた。
「情報は少し得たけど、肝心の組織の名前や場所、日室誠司の居場所なんかはさっぱりだったね。」
彼女の手には、小さな紙が握られていた。
それを夏海に見せてくる。
手書きのメモ書きであった。乱雑に色んな単語が書き記されており、右下に何重にも円で囲まれた単語がある。
「ひきつぼし星団?」
「更衣のズボンポケットに入ってたの。」
「抜き取ったの?!いつの間に・・・。」
「メモを見る限り、このひきつぼし星団とやらが紫フードのテロリスト集団で間違いないわ。」
メモをスカートのポケットにしまった比紗奈が、つま先でくるりと向きを変え、グイッと顔を寄せてイキイキとした目で言った。
「一緒に長野旅行に行きましょう。明日。」
「え・・・、えええええ!?」
「更衣から得た情報の中に長野というワードがあったわ。しかも日室誠司は実家がないにも関わらず何度も里帰りをしている。ひきつぼし星団って組織もきっと長野にあるのよ。」
「私達だけで?本郷会長にでもバレたら・・・」
「夏休みに友達と出かけるなんて普通よ。そうでしょ?」
そういって背筋を伸ばした彼女の顔に、悪戯が成功したような勝ち気な笑みが輝いていた。
万が一大人にバレても、夏休みの思い出に旅行に来たと主張すればどうにでもなる。
さっそく準備しなきゃと一人やる気満々の比紗奈は、軽く手を振ってあっという間に人混みに紛れて消えてしまった。
残された夏海は、呆然と観光客で賑わう大通りにしばらく立ち尽くした。
木製の扉を三回ノックする。
しばらく待っても反応はない。
ゆっくりドアノブを回すも、内側からカギが掛けられており開かなかった。
中から音がしない。気配を感じないのはいつものことだが、三日も顔を見せないのは異常だ。
「お兄ちゃーん!アタシ明日、友達と旅行行ってくるね。」
なるべく明るく、いつも通りの口調で告げてみたが、第一声はちょっと上擦ってしまった。
いつもだったら、友達と出かけると言えばどこに誰と行くとか、何時に帰宅予定かと細かく聞いてくるくせに、ドアの向こうから反応はない。
過保護の兄が、夏休みに旅行に行くと言っても何も心配してくれない事実に、胃の奥の方がずんと重くなる。
ノックするため上げていた腕を下ろす。
「アタシより上なのかよ、元誠司さんは・・・。」
扉の前で小さく呟いて、自分の部屋に戻る。
ここで励ますようにチャチャを入れてくる白虎も何も言わず影に潜んだまま出てこない。
孤独が頭上からのし掛かってくる。
いつも大事にされていたのに、どうでもいいと言われいるようで、子供みたいに拗ねてしまいたい衝動にかられる。
「ずっと騙されてたんだから、そこまで落ち込むことないのに。」
無意識に出た声が、驚くほどトゲを持っていたことに自分で驚いて、ベッドの上に飛び込んで枕に顔を埋めた。