第四部 消えゆく流れ星3
真冬の午後は、三時を過ぎれば太陽がかなり西に傾いて、一気に夕方へと加速してしまう。
一日の終わりが見えてくると、急かされているみたいで嫌になる。
高いマンションや一軒家が並ぶ住宅地を背にして、決して大きくは無い川の流れを見つめていた。
午後の柔らかな弱い陽光を受けて水面が輝き、せらせらと心地よい音が響く。
学校帰り、なんとなく寄った川沿いの細かな砂利の上に立ってただただ川を見下ろしていると、隣に気配を感じた。
ベージュのコートを着た浅黒い肌の男が、しゃがみ込んで同じように川を見つめている。
「同じ水は流れない。もう二度と出会えぬこの川を思うと、少し切なくならないかい?」
問いかけには答えなかった。
遠くで子供のはしゃぎ声や、車の通過音がする。
ありきたりの、普通の平日に紛れ込むナバリの王たる男が、隣で川を見ている。
こっちの方がよっぽど夢みたいだ。
「一瞬の邂逅や触れあいが流れを生むが、必ず別れる。人間みたいだね。」
「本題を言え。」
「つれないねぇ・・・。君ももう知ってると思うけど、儀式の日取りを伝えておこうと思って。一月十四日。君の誕生日だ。」
もうとっくに知っている。そう言うのは面倒なので口には出さずにおいた。
「君が成人と認められる日に門が開く。全て計算されてるみたいで、怖いよね。この必然。
俺が摩夜を恨み冥王となったことさえ・・・いや、やめておこう。結果論を論じても何も産まない。儀式の直前、夏海ちゃんから法具を抜いておく。」
「お前は法具に触れられないだろ。」
「問題ない。摩夜は俺を拒絶しない。」
「根拠のない自惚れで夏海を傷付けてみろ、宇宙の力を借りてお前を終わりのない思考地獄に閉じ込めるぞ。」
「フフ、全ては必然だと言ったろ。俺も摩夜と旅をして修行をした。あの五鈷杵と面識はある。
問題なく抜き取れることは保証しよう。」
「約束しろ。夏海の魂にも体にも不具合を残すな。以前と全く同じ状態で俺に返せ。」
「交渉成立だね。」
隣の男が立ち上がってコートのポケットに手を入れた。
一月上旬に着るには薄手で、マフラーも手袋もしていなのは見ていてこちらが寒くなる。
本人に温度差など関係ないのだろうが。
「夏海ちゃんは儀式の直前まで眠らせている。悲しみも恨みもなく、安らかに穏やかに。だから安心しなよ。」
「・・・。」
「じゃあね、天狼星。」
ビルの隙間を縫って北風が通り抜けていく。
急激に気温が下がったのは自分の心情を反映した結果だろうか。
隣にいた気配が消えて、一人になる。
辺りを行き交う雑音が押し寄せて、際立つものがある。これは、孤独だろうか。
楽しげな笑い声も、くだらない世間話も、自分とは全く関係ないところで生まれている。
取り残されたような感覚が指先を更に冷たくさせる。
「そんなに辛そうな顔をするぐらいなら、儀式など行わなければよいであろう。」
声が頭に直接響いた。
式神紫破の声だ。
「・・・七星の守り神のくせに宇宙意思に逆らうのか。」
「この星は完全に宇宙から隔離されてはおらぬ。二千年余り均衡は保たれてきたのだ。次の次元へ移行させたい宇宙意思とやらが、お前に儀式をさせるために用意した道筋でしかない。今まで通り、友人に囲まれ楽しく過ごすことも可能なのだぞ。お前は死ぬ必要などない。」
「屁理屈みたいな言い分だな。それが許されるなら、俺は生まれなかったよ。」
水面に、橙の夕日が映り始める。
冬の夕暮れは早く、短い。あっという間に夜に追い込まれる。
子供の頃から、夕方が苦手だった。どんなに楽しく遊んでいても、夕方の鐘が鳴るとそれもお終い。
空の陰影は美しいが、子供はもう家に帰って早く寝なさいとせき立てられているようで。
楽しい時間を奪ってしまう象徴。そんな感じ。
時間は進む。残酷なほどに、確実に。
水の流れのように、絶え間なく。
「お前、保那ってやつ知ってただろう。」
「・・・ああ。儂と白虎は摩夜の式神であった時期がある。
細かい記憶は摩夜封じたから、全て覚えているわけではないんじゃが、当然保那とも共に過ごした。横浜で生田目の結界が奪われた時も、一瞬だけ奴の気配を感じた。」
「何故言わなかった。」
「保那は摩夜が地中深く埋め封印した。完全復活はあり得ぬと踏んで、お前は何も知らせなんだ。遠い過去の因果など気にせず、平和に生きて欲しかったのだ。儂も、白虎もな。」
見下ろしていた足元の水面に、白い影が映る。
顔を少し横に向けると、今日も白髪美女の姿で、宙で紫破が胡座を描いていた。すっかり濃くなった橙の陽を浴びて、白い髪が儚げな色に染まっている。
紫破がゆっくり瞳を開いた。宇宙の煌めきを宿したような紫の瞳に、透夜を映す。
「摩夜は封じた冥王を見張るために七星を作った。儂はその守り主なることを摩夜に誓った。冥王の体が消えた今、その役目も終わった。」
紫破の体が、どんどん透けていく。
夕日を浴びて髪だけじゃなく肌や服までもキラキラと輝きだす。
「柱可は良い友であった。慧俊もやんちゃな子であったが、随分立派になったと喜んだものよ。」
「なんだ、お前も俺を一人にするのか。」
「最後まで寄り添ってやれずすまんな。じゃが、もう朔山で一人寂しく泣いてる子はもういない。好きに生きよ、透夜。」
紫破の体は粒子となって冬の風に溶けて消えた。
消えるその瞬間まで、紫破は優しく微笑んでいた。
再びの静寂が両肩に落ちてくる。
両親がいなくなって、夏海が来て、生活は賑やかになったが、
回りの優しかった大人達が手の平を返すように敵になり、居心地はどんどん悪くなった。
師匠も式神達もいつも側に居てくれたが、両親が居ない強い孤独といつも戦っていた。
孤独を誤魔化すために、修行に明け暮れ力をつけた。自分の強さなど、そんなものだ。
優しく美しい母、穏やかで頼れる父はもういないと、受け入れられないまま足掻き続けた。
冥王を倒して母の封印を解けば全てが元に戻るんじゃないかと、心のどこかで愚かな期待を抱き続けていたんだと、昨年末の一件で思い知った。
そんな何もない自分の側にいてくれた夏海。
―ずっと、気がかりだった。
本当の親の元に居た方が、幸せだったのではないかと。
親が生きているならば、特に。
妹を大事に思っていたのは本当だが、ふと、申し訳なさが胸を過ぎることもあった。
夏海が向けてくれる愛情も、偽りの上に成り立っている。
今回の事態は、自分達が無関係の少女を騙してきた罪が露わになっただけのこと。
結果、良かったのではないかとすら思えてきた。
罪を償うためにこの身を賭けるぐらい、なんともない。
ずっと側にいて妹でいてくれた夏海は、心から大事にしている。
もう何も無くなってしまった、俺から解き放ってやる時が来ただけのこと。
その為なら、俺は――
「おーい!そんなとこでなにしてんのさー!」
聞き覚えのある声がやや遠くから聞こえて、勢いよく振り返る。
車道から川に降りる縁で、頼安がこちらに向かって手を降っていた。
隣には、嵐もいる。
胸が鳴った。肩に押し掛かっていた孤独が、北風に吹かれてすぅっとどこかへ言えていくのがわかった。
自然と、足がそちらに向いて、砂利道と背の高い雑草群を抜けて車道に戻る。
「マンション寄ったら居なかったから、まだ学校かと思ってたよ。この寒い中何してたの?」
「・・・別に。」
「どうした?何かあったか。」
「いや・・・。嵐さん、腹減りました。」
「何食いたい?」
「あー・・・肉?」
「ならあ駅向こうの豚丼屋行くか。お前気に入ってたろ。」
「じゃあオレ、温玉乗せ豚キムチ丼にしよー。」
大学生コンビに続いて、道を歩き出す。
行き交う喧噪に混じって、安心している自分がいる。
背中が二つ並んで、夕日に変わってきた陽の光が前方から差している。
この光景を、忘れたくないなと思う心に、嘘は無い。
「ありがとう。」
「ん?透夜クン、何か言った?」
「何も。」
「嵐さんの川崎周辺お店開拓も順調ッスね!」
「半分は星爾さんに教えてもらってるよ。」
「あの人、身を隠してるんじゃなかったの!?」
とりとめの無い会話。柔らかい空気。
ああ、心地が良い。
「あの・・・。」
「どしたん?」
「今週末、暇だったらでいいんすけど・・・どっか連れてって下さい。」
「ワオ!珍しい~。透夜クンからのお誘い!いつもオレ達が連れ回すのに~。」
「どこか行きたい場所でもあるのか?」
「特には。」
「じゃあさ!スパ行こうよ。東京ドームのとこなら一日遊べるっしょ。温泉入りたーい!」
「いいな。」
「透夜クン、しっかり整うまでサウナ付き合ってもらうかんね~。」
「はい。望むところですよ。」
「嵐さん、スパ帰りのいい感じの食事リサーチ、よろしくッス。」
「任せろ。」
この二人と出会ってから、初めての経験を沢山した。
カラオケもボーリングもこの二人が教えてくれたし、自分では足を運ばないような店も、美味しい食事処も沢山行った。
生意気で高飛車、すぐ人を見下して牽制してしまう自分でも優しく受け入れてくれた。
故郷を出て、本当に良かった。
外の世界は、こんなにも楽しくて暖かい。
パタンと扉を閉じる。
するとパタパタとスリッパを擦る音が近づいて、リビングの扉が開く。
顔を出したのは、まろんであった。
「お帰りなさいませ、透夜様。お食事はいかがされますか?」
「外で済ませて来た。風呂頼めるか。」
「かしこまりました。」
洗面所に消えるまろんを見送ってから、小さくため息をこぼす。
帰宅する度に、期待してしまう。
夏海が、家に戻ってきてくれたんじゃないかと。
この家にいるのは、犬神だけ。
電気を付け暖かくしてくれているのは有り難かった。
誰もいない冷えた家に戻るのは、どうしようもなく心がすり潰されてしまう。
階段を上がって、自室に帰りコートを脱ぐ。
まろんが温めてくれていた部屋なのに、心が異常に冷えていた。
独りは嫌だと願いながら、死ぬ瞬間は独りなのだと、本当はずっと気づいていた。
*
一月十三日 午後五時
冬至も大分過ぎ、太陽は沈んでしまったが夜と呼ぶにはまだ早かった。
地平線から黄色、橙と色が濃くなり青、紫へと変化していく。
夕方はあまり好きではないが、夜の手前の空は美しい。
ベランダの柵に寄りかかって、透夜は猫を撫でていた。
柵の上で大人しくお座りしている三毛猫は、だらんと尻尾を垂らして大人しく撫でられている。
猫は透夜の飼い猫ではないのだが、越してからそんなに経ってない頃よくベランダを訪ねてくるようになった。始めは透夜ではなく星爾に懐いて、星爾が餌をやるようになると部屋に上がるようにもなった。
この猫は半分生き物で、半分常世の生き物となっている。
どこかの神社に長く出入りしていたのであろう。普通の猫なら登って来られない三十五階にも、軽々とやってくる。
冷たい風が騒がしい心を落ち着かせてくれる。
今日は少しだけソワソワして、地に足がつかなかった。今日を楽しみたいのに、どこか集中出来なくて勿体なかった。
世界はこんなに美しいのに。
ガラガラとドアが開く音が後ろからした。
「冷えるだろ。中に入れ。飯出来たぞ。」
「うん。お前も食べて行くか?斗和(とわ)。」
星爾が勝手に名付けた名前で呼ぶと、可愛い泣き声を出してから、我先にと柵から降りて空いたドアの隙間から身を滑らせ部屋の中に入ってしまった。
暖かい部屋で、暖かい料理を食べる。
猫用の小さいお椀で、斗和もおすそ分けをもらう。
「地球最後の日に何を食べたいですかとかあるけどさ、手料理がナンバーワンだって今分かった。」
「褒め言葉ってことでいいのか。」
「美味しかった。好物ばっかり揃えてくれて、ありがとう。」
両手を合わせごちそうさまをしてから、空いた食器を流しに持って行く。
「どうして、全部無くなってしまうんだろうな。指の間から、するりってさ。」
水の流れる音がくっきりと耳に残る。
「ずっと七星の地にいたせいで、外への憧れは強かったんだと思う
実際神奈川に越して外の世界を知って、楽しいことが沢山出来た。本当にありがとう、星爾さん。」
「何度も言ってるが、あれはー」
「俺も何度も言ってるでしょ。嘘偽りでも、俺が此処にいるのは星爾さんのおかげだよ。
奏多とも友達になれた。こっち来てから、いい先輩が色んな事教えてくれたし。」
キュッと音を鳴らして水を止める。
水は止めたのに、シンクに水滴がポタポタと落ちる。
「俺は夏海を助けるよ。お兄ちゃんだから。
夏海は俺の太陽でいてくれた。どんなに辛くても進み続けられたのは、夏海がいてくれたおかげだ。」
後ろから、大きな手で頭を撫でられる。
それでも落ちる水滴は止らなかった。一度溢れてしまうと、歯止めが効かなくなる。
足元に斗和が絡みついてニャーと可愛い声を出すけれど、今そちらを見てあげられなかった。
「最後ぐらい、本音を言っていいんだぞ。透夜。」
「・・・まだ、自分がやりたいこと見つけられてない・・・。消えたくない。一人は、もっと嫌だ・・・!」
「お前が消えれば俺も消える。一人では逝かせない。安心しろ。」
シンクに両手を置いて泣き出した透夜を、従者と猫はあやし続けた。
日付が変わるまで、あと数時間。
*
一月十四日 午前零時
袖の長い白衣、白袴。
水色地に星の模様が描かれた格衣を羽織っている。紺色の露先と胸紐を揺らしながら冷たい夜風に吹かれていた。
今夜は、都内にいるのに星がよく見えた。
「誕生日おめでとう透夜。あの小さい子供が、ついに成人か。俺も年を取るわけだ。」
「フフ。じじくさいこと言わないでよ星爾さん。」
「七星の装束にしては略式なんだな。」
「父さんが晦日の儀式で着てた服、実家から持ってきた。この服を着て神事を行う父さんが、一番好きだったから。」
「そうか。似合ってる。」
「ありがとう。」
地平線から天頂に向かって東京の空に膜がかかる。
始まる。
今宵宇宙の門が開き、この世界は別の次元へと飛躍する。
その前に、何千年もこの地を隠から守ってきた武蔵野国結界を解く。
いざ当日を迎えてしまえば、抱えていた不安は綺麗に消え、吹っ切れた。
もう大丈夫。揺らがない。そう決めた。