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第四部 消えゆく流れ星5

 

六等星までの星がはっきり見て取れる。
数え切れない程の星が透夜を見下ろしていた。
これから起きる出来事を、我関せずただ静観しているかのようである。
そこに壁や障害物は一切なく星空がドーム状に広がり、足元の床だけが白く目映く灯っていた。
正円の床には、青い線で陣が描かれている。中央には、北斗七星の図。
寒くもないが、決して暖かくはない夜の空間は、現世と常世の間。儀式のためだけに生まれた場所。
透夜の目の前に、四本の刃が着いた金色に輝く棒状のものが降りてきた。
七星法具、摩夜が使用していた五鈷杵であった。
眉間に訝しげな皺を刻んで、虚空に問いかける。

 


「夏海は無事だろうな。傷跡一つ付けてみろ、即行儀式中止するからな。」
「ご要望通り、夏海ちゃんの体にも魂にも傷はつけず、上手く法具だけ抜いたよ。思ったより、摩夜が抵抗しなかった。」

 


悔しげなため息を一つついて、宙に浮かぶ五鈷杵を手に取った。
重さはほとんどなく、指先にやんわりとした冷たさを感じただけ。

 

「さあ天狼星。摩夜が閉じた門を開き、武蔵国結界の楔を解いてくれ。儀式完了を見届けた後、夏海ちゃんをお返しすると約束しよう。」


姿を見せぬ声は、そのまま気配を消した。
自分は安全な場所で高みの見物か。気にくわないが、奴の思惑通り動くしか無い。
透夜は大きく息を吸って、ゆっくり吐き出した。
静寂ではない。言語でも音楽でもない音が聞こえてくる。
宇宙の音だと、透夜はすぐ理解した。
五鈷杵に念を込め、体の前で浮遊させてから、両腕を広げた。
足元の陣が青白く輝きながら動き出し、北斗七星が一際目映く輝いた。

 

「天におられ坐す帝星に告げる。帯方に集い賜いて我が声を聞き入れよ。」


透夜が着ている着物の裾がなびき始める。
下からか、もしくは前方から吹き出した風がその場所を駆け巡っていく。


「我は天狼星。彼方の声により宙を睨み番人として君臨せし。託されし門の門番なり。この鍵を持って、門を開く!」

 


透夜の眼前で浮いていた五鈷杵の刃が開いた。中央の柄が横に伸び、体をひねるように回転しながら刃部分も伸び始める。
刃は回転する五本の紐のようになり、螺旋を描きながら湾曲し始め空に昇り続けた。
風が舞い上がる。五鈷杵であった金色のベールが空へ空へと手を伸ばす。

 

「一つ、貧狼立ち上がりて、二つ巨門よ開け。」

 


足元の北斗七星の図、その二つが点滅し、消えていく。

 


「三つ禄存の懐を撫で、四つ文曲は知恵を貸せ。」


三つ目、四つ目の星も点滅してから姿を消した。
四星の名を告げた後、儀式を続ける透夜の脳裏に、知らぬ場面が過ぎった。
木漏れ日が差す穏やかな午後。おそらく春の日。
どこかの森か林の小道を歩いていた。
整備されていない獣道。隣で微笑む、浅黒い肌の男。
ああ、これは摩夜の記憶の断片だ。
まだ普通の人間だった頃の保那は、ただの好青年で、楽しげに友と話している。
何を話しているのか、声まではわからない。
夢で見た場面のように曖昧で、支離滅裂。けれど、絵画のように美しい光景だと思った。
なぜ、今になって浮上してきたのだろうか。
楔に染みついて残っていた摩夜の後悔が、残っていたのだろうか。


「五つ廉貞声高らかに、六つ武曲よ進軍せよ。」


五つ目と六つ目の星も消えた。
透夜の真正面の空に、あるはずのない星があった。
それは十一年前、冥王の力が漏れ出し両親が死んだあの夜に見た星と同じ。
まるで始めからそこに居たと言っているかのような、堂々とした煌めきであった。
頭の片隅で、往生際悪く戸惑う心が震えて泣いていたが、そっと見ない振りをする。
揺るがないように声に力を込めて、最後の星を告げた。

 

「七つ、破軍はさながらに、つつがなく祝詞をなぞりたまえ。」


足元にあった北斗七星が全て消え、白く灯っていた床が透明になる。
かと思えば、今度は青い床に変わり、白い線で模様が再び現れた。
そこに描かれた星座は、天狼星を持つおおいぬ座。
眼前に浮いていた変形した五鈷杵がパリンと乾いた音を立てて割れ、消えた。
風が止む。
なびいていた裾が落ちる。
耳鳴りがするほどの静寂が耳を圧迫してくる。
宇宙の音も消えていた。
突然、透夜の前に、横たわった姿の夏海が現れた。

 

「夏海!?」


走って駆け寄り、抱き上げる。
眠っているだけのようで、息も体温もあり心底安堵する。

 


「おい、夏海。起きろ。」

 


優しく声を掛けると、閉じていた瞼が震えて、ゆっくり瞳を開かれた。

 


「お、お兄ぃ、ちゃん・・・?」


寝起きの掠れた声を出してから、ゆっくり半身を起こす。
夏海は秋に姿を消した格好のまま、何一つ変わってないように見える。
外傷も見受けられない。

 

「大丈夫か、夏海。痛いとこないか?」
「アタシ、たしか・・・保那さんについていって、それで・・・。」
「もういい。終わったんだ。五鈷杵も無事体から抜けたよ。もう日常に戻れる。」
「お兄ちゃん・・・。アタシ、アタシは・・・。」

 


記憶が徐々に戻ってきたのか、思い詰めた表情になる夏海に、透夜は優しく微笑みかけた。

 


「お前がどこの誰だろうが、俺にとっては本当に大切な妹だ。これからもずっと。だが本当の家族のところに帰りたいなら―」
「嫌だ!アタシはお兄ちゃんの妹でいたい!」

 


脱力していた夏海が、兄の腕にしがみつく。
少し驚いた顔をして、透夜は俯いた夏海を覗き込む。

 


「いいのか?夏海の母親は、今も生きてる。場所も蛍火が把握している。」
「全部思い出したの・・・。アタシはお母さんに捨てられた。いらない子だった。いまさら戻っても家族にはなれない、血の繋がった他人のまま。許されるなら、お兄ちゃんと家族のままがいい・・・。」
「そうか。良かった。」
「お兄ちゃんは、アタシでいいの・・・?血は繋がってないし、術士として才能もないのに。」
「関係ない。夏海が俺のところに来てくれたから、俺は頑張れた。
俺に生きる意味をくれてありがとう。俺の妹になってくれてありがとう、夏海。」

 


兄が見とれてしまうぐらい美しく綺麗に微笑むので、夏海の両目から涙がこぼれて落ちた。
夏海も感謝の言葉を紡ごうと口を開けた瞬間、夏海の体が崩れ一瞬で消えてしまった。
あまりに突然の出来事で、透夜の動きも思考も固まる。
今の今まで腕の中にあった重みと温かみが、呼吸より短い間に失われた。
また敵の幻術の罠にでも掛かったのだろうか。いや、此処は宇宙の狭間―。

 


「長年法具の器でいた代償だな。法具を失って、体の維持が出来なくなったんだろう。
それに、此処は普通の人間は息すら出来ない。俺のせいじゃないぞ?君との約束は守った。」

 


しゃがんだ姿勢のまま、上半身だけ振り返る。
そこに立つ男は、黒い衣を身に纏い、薄く笑っていた。
今まで見せていた優男の顔はとっくに捨てていた。
楔が解かれ、もう自由の身だ。だからこそこの場に割り入れる事が出来たんだ。
透夜は、震える指で顔を覆う。内臓の奥の奥から湧き上がる感情が濁流となって押し寄せるのを必死に理性で押さえつける。指の隙間から相手を睨み付けた。

 


「白虎・・・。そいつをかみ殺せ。」

 


怒りで震え、喉元から絞り出した声でそう告げると、透夜の影から白い塊が飛び出して、神速の早さで間合いを詰め喉元に噛みつく。
吹き出したのは鮮血ではなく、漆黒のもや。
もや集まり自我を持って、白虎の胴体に巻き付こうと触手を伸ばしてきた。
本能で飛び退いた白虎の風貌は、夏海と共にいた時と大きく変わっていた。
鋭利な歯をむき出しにし、地面を掻く爪は伸び、目は敵に対する殺意で白く濁っている。
足の筋肉は膨れ上がり、表情は穏やかな虎ではなく、鼻先に皺を寄せ獲物を前にした捕食者の顔になっている。
それに加え、肩と尻尾に青白い炎をまとっていた。
肩を低くし威嚇のポーズを取ってから、再び黒衣の男に襲い掛かる。
高く飛び上がって、口から青白い炎を吐いた。
男が腕をかざして炎を避けている間に後ろに回り、今度は前足の爪で背中を切り裂く。

 


「さすが凶神と恐れられていた西方の守護者。主の怒りで全盛期の力を取り戻したか。」

 


白虎の爪は確かに男の肉を切り裂きえぐったはずだった。
手応えもあったが、黒いもやが傷がついた背中を覆うと傷は洋服ごと治される。くるりと後ろを向いて、涼しい顔で微笑む。
白虎の下腹部を黒く鋭い針のようなものが突き刺さった。

 


「馬鹿め。」

 


そう言い放ったのは、具現化が解け虚無へ帰ってゆく白虎の方だった。
黒衣の男の体に、青白い紐が四方から絡みつき、それぞれ四方に杭を打ち留める。
黒い長衣に身を包んだ男―かつて保那という名を持っていた冥王が、透夜を見据える。
透夜が手に印を結び、足元の陣から吹き出す霊力で袖と前髪が踊っている。

 


「約束通り儀式は行ったが、俺が消えるまで猶予がある。ここは天狼星の座。お前を道連れに宇宙へ連れて行く。」
「フフ。君が大人しくしてると、俺も思ってはいなかったよ。」

 


頭上に並ぶ星々が瞬き出す。
透夜に共鳴しているのか、戦いの観戦者として傍観を楽しんでいるのか。
印を三つ結んで、透夜が両手を強く叩く。
彼の後ろに、薄紫の影が出現した。盛り土のような簡易的な体に、小さな両手と豆粒みたいな両目を貼り付けたふざけた見た目。
頭についた二つの角に威厳は何も感じられない。
それは冥王と恐れられたナバリの王であった者の体。それを三メートル程の高さに縮小させ具現化させている。
透夜の守り神のように、背後に君臨する冥王の体に、元の持ち主であった男は嫌悪感を隠すことなく目を細め口元を歪めた。

 


「その抜け殻を使ってどうするつもりだい。人間は驚異かもしれないが、俺には―」

 


言葉の途中で、体に違和感を感じた。
指先が震える。いや、痺れ始めた。髪の一本一本が静電気を帯びたように立ち上がるような感覚。
鳥肌が走る。体がわずかに、本当にわずかな距離だがジリッと前に進んだ。
ハッとして息を飲んだ。
真実に気づいた冥王の様子に、透夜が勝ち誇った笑みを口元に宿した。

 


「魂が元々の入れ物であった体に引かれ、吸引効果が出る。お前は正確には死んでいないから、まだ体と繋がっている。
だが黄泉の国にまで嫌われたアンタを消し炭にするには、俺と共に魂を宇宙に運ぶしかない。
もうこの星にいられぬよう因果を全てぶった切ってやる。」
「天狼星と心中か。それも素敵だけど、まだやることがあるんでね。」

 

冥王の体を縛っていた縄が全て解かれる。
お互いの湧き上がる霊力で風が生まれる。
一時の睨み合い。
透夜にとっては、時間がない。
摩夜が閉じた門を開いたことで中途半端のまま投げ出されていた儀式は既に完了している。
この身は既に現世になく、異物を無理矢理この空間に留めていることで得た猶予時間。
必ず仕留めなければならない。
やらねばならない。
摩夜が送りそこねたこの魂を野に放ったまま、自分だけ勝手に離脱するわけにはいかないのだ。
大切な人がいる世界を。
大丈夫、まだ夏海は取り戻せる―・・・。

 

「七ツ星秘術<北斗星君>。二星、紫光星霧の舞。」

 

透夜の足元に紫掛かった霧が薄く掛かり、辺りに広がっていく。
七星の地で吸収した冥王の体が再び透夜の体に入っていく。
おおいぬ座の星図の上にパチパチと音を立てて電気が走り、透夜の霊力を補助するフィールドが形成されていく。
さらに霊力を洗練させるバフ効果も付けられる秘術。
此処は天狼星の座。
自分の世界。
必ず冥王の魂をつかみ取る。

 


「重ねて、三星、魁標斗宿の結い。」

 

冥王の前から、透夜の姿が消えた。
目を凝らし耳を済まし、気配を読んで透夜の姿を探すがどうにも見つからない。
先程正円フィールドの中に張った紫掛かった霧が作用しているのだろう。

 


「摩夜はその秘術とやらを俺にも見せず、一人山奥で修行に没頭していた。いい技だな。」

 


右手側から気配がして、反射的に右腕を掲げ防壁を張る。
青白いエネルギー弾が放たれた方角へ黒い球を飛ばすが、もうそこに透夜は居なかった。
再び気配が消える。
どうやらこのフィールドを自分の霊力で支配し、姿すら消してしまう技のようだ。今透夜は神出鬼没の透明人間。

 


「五星、星河鎮輝。」


正円のフィールド内に、無数の星を宿した紺色の膜が現れた。
腰の高さほどで膜が絡みつき、一帯に展開される。
手の平より小さい星が無数浮いている。形、色は様々で、中央を起点としてゆっくり自転している。
冥王の腰に星がぶつかる。
すると、体から霊力が奪われる感覚がした。
この星に触れるのは危険だと本能が理解して一歩下がったが、空白であった場所に違う星が移動してきて、今度は触れた途端急激な眠気に襲われた。


「此処はもう天狼星の巣の中ってわけか。蜘蛛の巣にかかった蝶はこういう気分なのかな。」

 


口調だけは余裕を崩さず、冥王が右手の人差し指を立てて頭上に掲げた。
すると、一帯を覆っていた天の川を模した膜が一箇所で巻き上げられ、
巨大な布を巻き取るように消し去られる。
煩わしいトラップの海は退けたと油断していた冥王の背中に、痛みが走る。

 


「六星、留計止操。そんな簡単に取っ払えると思うなよ、冥王。」


背中に一撃食らったのかと思ったが、どうも違う。
背中に走る神経、触感、内部を流れる血流。それらの感覚が恐ろしく鈍っている。
いや、止っている。
右腕を上に掲げた姿のまま、冥王は指先一本動かせず固まったいた。
やがて呼吸さえ自由に出来なくなり、心臓の音が停まる。

 


「六星は留める技。ありとあらゆる流れを止める。」


冥王が巻き取った膜が再び解かれ、一帯に広がれ自転を再開する。


「アンタは魂の存在だから心臓も血管も実際には存在していないが、人間であった意識に語りかけるには十分な暗示だ。」

 


決して派手な攻撃ではないが、確実に敵を滅ぼす技であった。
―俺を倒すために生み出したのか、摩夜―。
悔しさが血を沸き立たせて怒りが体を熱くする。
透夜の言う通り、肉体はとうの昔に滅びており今はただの意識体。
それなのに、目線すら動かせない焦りがようやくを無いはずの脳みそが動き出す。
焦り。怯え。生命の危機。
随分久しぶりに感じる感情と作用に懐かしさを覚えつつ、冥王は透夜と出会って初めて苛立ちを見せた。
危機感を感じさせ劣等感を彼に与えたのは、摩夜だけだった。
気高く強く、愚かと言いたくなるほどお人好しな摩夜―。
その面影が、透夜に重なる。

 


「俺を、また侮辱するか摩夜!!」


体の動きと留めていた呪縛を両腕を払うことで無理矢理剥がす。
反動で着物の裾が破れたが気には留めない。
ただ真っ直ぐ、透夜を睨み付ける。
怒りを具現化したような、赤味を帯びた黒いもやが体から吹き出し、
黒い髪がどんどん伸びて床まで落ちた。衣服もまた変化を始め、床に触れた裾はヘドロのような動きの遅いドロっとした液体に変わっていた。
そのヘドロは、触れてくる星々を次々焼いては蒸発させていく。

 


「何故神をも殺せる力を持ちながら雑魚な人間共を守る!?俺より力を持っていながらなぜ力を使わない!?俺を・・・俺を見ろ摩夜!!!!」
「それがアンタの執着か。冥王。」


怒りで顔つきが変わった保那の双眸を受け止めながら、透夜は両手を目の前に掲げた。
青白い線で描かれた陣が三重になって現れる。
それぞれ模様を描き、文字を記し、自転を始める。
透夜の格衣の裾が激しく踊り始める。

 


「摩夜からの贈り物だ。この技でお前を眠らせてやるよ。永遠にな。」


三重の陣が一つに重なり、一本の線となって透夜の周りを回る。
そこに星の煌めきが加わり、薄い透明な膜を持った円盤となった。
手の平サイズにまで円盤を縮めて、頭上に掲げた。

 


「黒洞は無に至りて、累々光々飲み込み賜え。七星、無星!」


それは摩夜が生み出した、最終奥義。
禁術の中でも特に使用を禁止しながらも、未来のために記した技。
光りすら無へと飲み込む技は、現代風に言えば、ブラックホール。
伸び続ける宇宙の果てに触れ宇宙の存在を感じ取った摩夜だけが生み出せた究極の域。
理をねじ曲げ、存在すら無に変換する。
宇宙の真理にも達するため命を削り、己の存在が消えてしまう禁術でもある。
摩夜は、この技の理論を生み出したが実際に使うことはなかったという。日記のそう記してあった。
共に旅をした大切な友を、居なかったことには出来なかったとも。
透夜は柱可和尚が受け継ぎ裏庭に埋めた禁術をずっと読み込んできた。
何度も頭の中で反芻し、理論を頭に叩き込んだ。
自分なら出来ると、自負もあった。
天狼星として儀式を行っている間は、宇宙の領域に触れているため、人間の理から解放される。
今の透夜は、宇宙そのものであり、星を産むのも消すのも自由自在であった。
透夜の頭上で輝く透明な星の膜から、黒い光が発射される。
光なのか、影なのか、物体なのかすら見た目では理解しがたいそれに冥王の体が触れた途端、体の端が伸びたり縮んだりを繰り返し存在が不安定になる。
人間の頭では理解出来ない程の大きすぎる重力と質量に絡めとられれば、光すら脱出出来ない空間に落ちる。時間すら崩壊し、観察することすら不可能な天体。
有るとも、無いとすらされている宇宙の謎。
そこからどう足掻いても抜け出せないと悟った冥王が、更に顔を醜く歪めて罵詈雑言を喚き出す。
口は裂け、目は白濁し、猫背になった肩が張っていく。
その様は、まさにナバリ。妖怪と恐れられた者の姿であった。

体内に取り込んだ冥王の体を媒体にしてあるため、冥王の魂は逃げられない。

あとは透夜が生み出した無へ導く道が完全に冥王を飲み込むのを待つだけ。
それだけだった。

―突然、透夜の手首足首を黒い縄が拘束した。

発動していた秘術が強制的に解除され、ブラックホールを放出していた透明な膜がパリンと冷たい音を立てて割れた。
ブラックホールの放出が停止され、一帯に広がっていた透夜の術も消えた。
地面に描かれたおおいぬ座の星図が、一つずつ消え、床が深淵のような恐ろしい黒に染まる。
闇。まさに光を飲み込む闇。

 

「フフ・・・、フハハハ。この時を待っていた。ああ、危なかった。もう少し遅ければ、魂を全て持って行かれていたところだよ。」

 


枯れて醜くなった声でそう吐いた冥王は、伸びきった両腕を前に垂らし、獣のようなポーズでなんとか立って存在を保っていた。
以前の面影は全く無く、手足が細く長い化け物がそこにはいた。
冥王は裂けた口を更に左右に伸ばし、奇妙な笑みを浮かべた。笑おうとしたのだろうが、喉が半分潰れたのか、酷く耳障りな音を漏らすことしか出来なかった。
透夜の足が、闇に染まった地面に埋もれていく。

 


「時間切れだな天狼星。お迎えだ。」

 


鳴き続ける喉が奇っ怪な音を出し続ける。
透夜は体を引っ張り続ける力に抵抗を続けていたが、沈む体は止らない。

 


「その力は俺が利用してやるよ!摩夜を越えるんだ!あいつを!俺が!」

 


頭上に輝いていた星が次々闇に包まれ始める。
光が消え、黒い墨のようなものが下からせり上がっていき、あっさり透夜の下半身を飲み込んだ。
あがく透夜をさらに沈めようと、下から伸びた黒い触手が肩や首、顔にまで絡みつく。
どんどんと黒く染まり、闇に飲まれていく透夜は、怒りの瞳を冥王に向け続けた。
だが、声すら出すことは許されていない様子だった。
これが天狼星の宿命。
星の門を開き、宇宙からの流れを呼び込む。
その代わり、その身は砕かれ物質としての命は一度奪われ宇宙意思と同化する。

 


「摩夜もきっとそこにいるだろう。さよなら天狼星。これからも空から見守っててくれたまえよ。」

 

透夜の脳天が、完全に闇の中に消えた。
残ったのは、冥王という存在。
彼は勝ったのだ。透夜にも、そして摩夜にも。
潰れた喉で狂気じみた高笑いを上げる。
天狼星が舞うための儀式の間が反転して、消える。
彼が降りたっていたのは、現世だった。
一般人から目を背ける結界は張られているようだが、紛れもない現代の東京。

 

「さあ、俺がこの世界の王となる。宇宙の力も使って、摩夜すら出来なかった支配を、俺が!!!」

 


潰れた喉は元に戻り、黒衣は綺麗な仕立てに作り直された。
結界内で輝いていた満月が赤く染まる。
そこかしこでナバリが顕現し、術士達の悲鳴があらゆる方向から聞こえ始める。
最大の敵天狼星は宇宙に消え、彼が使っていた力は先程吸収してやった。
摩夜が生み出した秘術を使って、宇宙の流れも飲み込んでやる―。
二千年ぶりに冥王が君臨した。
今の現世で、冥王を倒せる術士は、もういない。

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